" ignition " by Oi
1989 これじゃ、日本には帰れない
新年のニューヨーク
日本の年末の慌ただしさと違い、ニューヨークの街はゆったりとした時間が過ぎて行く。
異国で年を越すという初めての出来事に何か複雑な想いもしていた。ここに来ての半年は、あっと言う間であり、また反面とても長かった様でもあり、矛盾する
ようだがどちらも実感としてあった。
異国を旅してる感はとっくになくなっていて、今は異国で生活しているのだ。言葉も文化も習慣も全く違う環境に住みつき年を越えようとしているのだ。
日本の除夜の鐘を聴きながら静かに新年を迎えるのとは大違いで、集まった群衆がカウントダウンされる
電光掲示の数字と一緒に大声で「three, two, one 」と叫び、ニューイヤーを喜び合う姿には驚かされた。
皆それぞれ近くの者同士で握手、ハイタッチ、ハグ等し合って「Happy new year ! 」と言い交わす。
だが僕の感じでは、群衆の多くは、暇そうな若者達で、なかにはすでに酔っている者も多くて、なにか危ない匂いもした。そのせいか、辺りには騎馬警官隊がパ トロールしている。
マンハッタンのど真ん中を馬に乗り、蹄の音を響かせながら警戒してる姿がまた、いかにもニューヨークらしかった。
この半年での刺激的で、面白くて、時にたまらなく切ない時間は僕を完全に魅了していた。
なぜもっと早くからここに来なかったのかと後悔の念を抱く程、ここでの時間は僕の心を捕らえ続けていたのだ。言い方を変えれば、「価値観」が少しずつ変っ
て来たのだろう。
そしてこの「価値観」の変化は僕のなかで、何か貴重なものがここにいれば見えてくるという期待感を産まれさせていた。 これじゃ、日本には当分帰れない!
いつ終わるとも知れない42丁目の騒音を後に、一緒に来た仲間達とも「Happy new year ! 」と別れの挨拶を交わして、僕は42丁目からサブウェイで帰途についた。
さすがにこの日は深夜だというのに乗客が多く、深夜地下鉄の危険感はなかった。
ナベちゃんの「ハラキリ」事件
ジャパニーズレストラン「D」にはいろいろなウェイター、ウェイトレス達がそれぞれ様々な思いで働いていた。入れ替わりも激しくて店の入り口横の ウィンドウにはいつも従業員募集の張り紙が貼ってある。
今思えば、ナベちゃんの心の中はこの事がきっかけとなって急速に変化していったのかも知れない。
それはニューイヤーズイブの新年を迎えようとする数時間前に起きた。
正月休みも終わりまた「D」は元通りの営業を開始した。
新年も数日が過ぎると観光客もほとんどが日本に帰り、普段よりヒマになる。
ナベちゃんも普通どおりに出勤してホールに出ていた、‥様に見えた。
ナベちゃんの仕事終わりの帰りがけに声をかけてみた。よくある仕事上の話としてだったが、彼の返す話も理にかなっていたので、それ以上込み入った個 人的な話へと進ませる事も変だと思い、お疲れ様と言って別れた。
ナベちゃんの「ハラキリ事件」 その2
決定的なナベちゃんの異変に気がついたのは、その数日後だった。
誰もが確認できたナベちゃんの異常さの決定的瞬間は、2月のある日仕事中に起きた。
何の解決にもならないのは分りきっていた。
なぜなら彼にとって唯一の解決策とは「一回死ぬ」事なのだから・・・・・・・。