Good Fellas (良き仲間達)〜圧倒的な個性の集団、居酒屋"D"〜

1988 #4. 1月過ぎて、いよいよ49ストリート 

 僕は言われた通り、朝10時に新しい勤務先の49ストリートにある居酒屋 D に行った。

店構えは前と違っていかにも大衆的な気安い感じで、ヤキトリが似合いそうな造りの店だった。飲食店のフロントといわれても、これまた全く経験などな い。
でも、緊張感もない。これは前の店で、ちいさいけれど、NYのなかの日本人社会を体験していたからなのだろう。「ラク」なのである。上下関係、、。勿論あ る。が、「ウスイ」のである。

皆、多少なりともアメリカナイズされていた。
これは、後で自分でもはっきりとわかるのだが、在住時間に比例して、そうなってしまうのだ。嫌が応でも。 個人主義。日本にいるとまず悪い意味でしか使わ れない言葉だろう。しかしここでは、これを無視しては生きてはいけない。 それが肌でわかってくるのだ。
しかし、ニューヨーカーは、気を使いあうことも、ひょっとすると日本人よりうまいかもしれない。
世界中の人種が集まる特殊地区のせいだろう。

店はもう誰か来てるらしい。半開きのシャッターのすきまから木のドアを開け中に入ってみた。木のテーブルのうえに木の椅子が乗せられていた。奥に長 細い店で、左の奥はカウンターになっていた。キッチンはさらにその奥にあるらしい。誰も見えなかったので、僕は椅子をおろし、腰掛けて待つ事にした。

2、3分すると僕の気配を感じたのか、奥から誰かこちらに向かって来る足音がする。
現われた人の風貌にまず目を奪われた。
「おはようさん。聞いてますよ。今日からフロントに入る人やろ。ボク、"T"といいます。今奥で仕込みやってますから、もうちょっと待ってて。もうすぐマ ネージャーが 来ると思います。」 彼の口からすぐに関西人であるとわかる言葉を聞いてまた驚いた。最初に顔をみた時、国籍不明に思えたからだ。
背丈が小さく、色黒、目が大きく、睫毛、眉毛が濃く、アフリカンカラーを強調したTシャツのうえに日本のはんてんふうな仕事着をはおり、耳からはずした ウォークマンのイヤフォーンが首に垂れていた。

ミュージシャンではないが完璧にレゲエにはまり込んだ音楽好き人間。
口ひげをたくわえたTさんのとてもフレンドリーな挨拶に、心が和んだ。しばらくすると、次々と従業員達が現われた。ウエイター、ウエイトレス、キッチンス タッフ、それにアミ−ゴス。皆僕の事はきいていないのだろう、軽い会釈をするだけで、それぞれが忙しそうに開店のための準備にとりかかる。

開店は11時半。僕はあいかわらず、ぼーっとしながら独り何もせずマネージャーの "K"さんを待っていた。もうそろそろ11時。Kさんはまだ現わ れないが、ここを決めてくれたSさん(この店の料理長でもあったのだ)が現われた。 彼を確認すると従業員全員が「おはようございまーす」と挨拶をする。
彼は僕を見て、切った指は大丈夫かと気づかってくれ、それにしても、マネージャーのKさんはまだ来ていないのかといぶかしそうに僕に聞いた。

確かにKさんとの約束は10時だった。するとSさんはウエイターのひとりに「おい、Kさんに電話してすぐ来るように言えよ。ずーっと待ってるじゃ ねーか。ったくよー!」
なにやら、ちょっと不機嫌になった様子だ。そうそう、Sさんについて説明しておかなきゃ。

ひと呼んで「鬼瓦」オニガワラ。
本人も影ではそう呼ばれている事はとうに知っていた。見るからに頑丈そうな身体つき。顔は四角く骨格が張っていて、誰もがこの人と喧嘩するのだけはやめて おこうと思うだろう。大学まで野球ひとすじでやっていて、けがのために夢を断念。それから料理の道に入った典型的な「根性論者」。
でも見掛けとは違う心の温かい人だと言う事は、僕はここに誘ってくれた前の事からもわかっていた。この後、彼とは一番長く、一番何でも話し合える仲にな る。

電話を受けてKさんがやって来たのはさらに30分以上も過ぎた、開店約15分程前。眠そうな目をこすりながら、店のすぐとなりのビルのアパートから やってきたKさん。

この人の風貌がまたまた、一度みたら忘れられないほど特徴的であった。
昔の公家、ごじゃる、ごじゃる、のあの公家様顔の典型だ。ひょろっと細く背が高く、話し方も細い声でやわらかく、物腰もまたホソクて柔らかい。そしてやは り、ホソーイ、口ひげをはやしていた。この店では一番の年長者で確かその時42、3才だったように記憶している。これから僕の直接の上司になるひとだ。

僕を認めると「ああ、ちょっと待っててくださいねーー」といいつつ、何とも言えない奇妙な早足で奥のキッチンへ急ぐ。なにやらSさんに遅れた詫びを 入れてる様子。
僕のところへ戻ってくると「腰をやっちゃいましてねー、、、。遅くなりました。Kといいます。まあ、あせらずゆっくりとやっていきましょう。えー、まずは これに着替えて下さい。」

なんともマイペースな感じで言いながら真っ赤なポロシャツを僕に手渡した。胸にこの店の名前がプリントされたユニフォームであった。
ここでは、ホールの全員が同じユニフォームだ。色は他にライトブルー、グリーン、紺、などさまざまあったが、僕の最初の一枚は真っ赤であった。

こうして、この店での約3年間の第一日目が始まった。
Tさん、Kさん、そしてSさん、特にこの3人を中心に、限り無く面白く、切なく、時に危なく、また心あたたまる事柄が次から次えと起きることになるとは、 この時はまだ思ってもみなかった。

*** fellow (仲間)
 いつも一緒に行動したりする気の合う仲間の事。連れの事。   
現地の人は " fellas"="fellows" と略して言う事も多い。
My fellas are gonna take care of me. 
(仲間達が私のめんどうをみてくれるだろう)
ロバート デニーロの" Good Fellas" というタイトルの映画が   
 あったが、その時"Fellas" を辞書で捜したが載っていなかった。  
友人に "fellows" の事だよ、日本の辞典じゃ載ってないよ。   
     そういうのって、いっぱいあるよと教わった。そういうの載せて!


 初めてのアパ−ト

ここNYに来て2ヶ月が経った。仕事をし始めるとアパー トに住む事を考える。仕事場の皆がアパート暮らしで、それぞれが自 分の部屋の具合を、よく話すからだ。それに、いくら安いホテルといってもやはりアパートを借りた方が安い。
チッコの働く店の常連で、イタリアに留学後NYに来て10年程経つという日本人服飾デザイナーの彼が不動産屋を紹介してくれるという。僕らはワクワクしな がらすぐに行ってみた。

場所はマンハッタンではなく、クィーンズのアストリアという所だ。49stからNトレイン に乗って15分位の所で、高層ビルはなく、閑静な住宅街 だった。グリーク(ギリシャ系移民)の街らしく治安もいいという。あとでわかったのだが「刑事コジャック」も典型的なグリークであった。

早速部屋を見に行った。
今思えば、よくあんな部屋を借りたものだというくらいひどい部屋なのだがその時は何もよくわからず、けっこうイイじゃん、てな感じにさえ思っていた。
駅から歩いて5分位。古いレンガ造りのアパート。それになんと地下室。レント(家賃)は確か、450ドル。勿論、陽はいっさい当たらない。2ベッドルー ム、つまりリヴィングの他に2つ寝室がある部屋だ。

しかし僕らには、No problem. 問題なかった。稼げる給料も安かったし、いや、それより、これでニューヨーカーの仲間入りが出来るという子供じみた思いが強く、問題なかった。
契約書にはチッコと僕のふたりで借りることになっていたが、実際はそれに若い"J"と"E" が加わった4人での生活だ。レントのは一人当り約100ドル。この点でもまた皆問題なかった。いよいよアパート暮らしが始まった。JとEはどこからか、い ろんな物を集めてきた。
マットレス、カウチ、テーブル、テレビ等々。もちろんただで。

ある日大家が訪ねて来て、せめて窓にはカーテンをするようにと注意して行った。とても危険 だからと。おそれを知らぬ新米ニューヨーカーだった。

Nトレインでの通勤も楽しかった。マンハッタンのなかは地下鉄だがイーストリバーを越える と地上にでる。アストリアという町も気にいっていた。マン ハッタンから15分位離れただけで、いかにも田舎町といった感じがした。
実はこれも僕がまだアメリカをよく知らなかったせいで、ほんとの田舎はとんでもなく、ここアストリアは典型的なNYのなかの町のひとつだったのだ。
高層ビル群のイメージが即NYと思っていたが、それはマンハッタンだけで、クィーンズ、ブロンクス、ブルックリン、ロングアイランドに入れば、みなここア ストリアと同じような街の景観なのだ。
ただ各地区によって住人の人種がかたよっている。

最初の頃、通勤する時に癖になった事がある。それは電車に乗る前に駅前のコーヒーショップ でクリームチーズのベイグルと紙コップのコーヒーを買い、 電車のなかで食べる事だった。ニューヨ−カー達がよくやっているのを見て真似してみたのだが、これがなかなかよかった。
ただコーヒーにはちゃんとふたをしておかないと電車が揺れた時、こぼれたコーヒーが手にかかり、やけどしそうになる。だがさすがアメリカ、カップのふたに はさらに小さな飲みくち用のふたがついていて、一口飲んだらすぐにその小さなふたを閉めればよい。

特に冬にはこれが欠かせなかった。

このアパートは半年位で出るのだが、このあと引っ越した先もまたアストリアのなかだった。それほ どこの街を気に入っていたのだ。ゆっくりと15分くらいも 歩けばイーストリバーに当たる。リバーサイドにひろがるアストリアパーク。その芝の上に寝っ転がって川越しに見るマンハッタン、ブロンクス。何本ものブ リッジがそれぞれ美しい。

若いカップルは川辺りで長いキスを交わし、子供達は移動アイスクリーム屋のバンに群がる。 ジョギングを楽しむ人達はハーイと声を掛け合いながらすれ ちがう。公園からの帰り道、花屋の愛想のいい店員をみておもわず一輪の名も知らぬ花を買う。ここのメインストリートは、スタンウエイストリート。休日は老 若を問わず多くの人達で賑わう。よく行くコーヒーショップの従業員にも顔を覚えられた。" Hi, how are you doing ?"
" Hi, I'm OK "  街の住人として受け入れられたと思える、なんともいえぬイイ感じ。

日本に帰ることなどかけらも思い浮かばなかった。
NYに浸りきっていた。

 *** how long does it take ?
  (それ、どのくらい時間がかかるの?)
 例えば 何所かへ行こうと思った時にどのくらい時間が
 かかるのかしりたいなら、こう聞きます。
How long does it take me to get there ?
It takes about 15 minutes,I guess.
(約15分くらいと思うよ)


ハローウィーンはマイアミで

居酒屋Dで働きはじめて3ヶ月くらい経った頃だろうか、10月31日のハロー ウィーンが近づいていた。現地の人達は一週間も前位から色々と楽しむ為の準備 に忙しい。
当時僕にはピンとこなかったが、アメリカではけっこうなイベントだ。 街中、仮装した人々であふれ、子供達は、"Trick or treat !" と言いながら近所をまわってお菓子やキャンディーをかき集める。
僕の店でもその日の為に安いキャンディーを用意していた。
僕はマネージャーのKさんから「子供達が トリック オア トリートと言って店に入って来るので、皆にキャンディーをあげて下さい。あげないとイタズラされますからね」と聞いていた。その時も、ああ、やはりアメリ カなんだなーとつくづく思ったものだ。もし知らなかったら、なんだ、このガキどもは。勝手に店に入って来て訳の分からん呪文みたいなものを唱えて。いった いなんなんだ! と思った事だろう。
僕の店でも、ここで長いウェイターやウェイトレスなどは当日の衣装の準備をしていた。連中に僕もなにか化粧とかしたらと勧められ、ちょっとその気になりそ うになったが、止めとく事にした。

ちょうどその頃、ヘッドウェイターのアオちゃんが4日の休みをとってマイ アミに行くといい出した。それもハローウィーンをはさんで。彼は旅行者で、 ここNYでは旅費を作る為に働いていた。
この後、南米に渡るのだそうだ。このての若者達はけっこう多くいる。 そのアオちゃんが僕もどうかと誘ってきたのだ。 マイアミ、キイウエストと聞いて夢 見る子供のように、僕は頭のなかでいろんな想像をした。南国のイメージがどんどん広がって、たまらなく一緒に行きたくなった。

だが考えても、この会社に入ってまだ数カ月、ヴァケイションなんてとれな い。たしか、一年たてば一週間ほどの休みはとれるはずだが、今回はムリだと あきらめていた。ところがである、なんとマネージャーのKさんがこの事を聞いていたらしく、僕に行ってくればと言い出したのだ。
聞けば、Kさんもその後に何か都合があるらしく、僕が帰って来たら、今度は自分が休みをとるので、シフトを調整するという。僕には願ったり叶ったりだっ た。

これでアメリカ国内旅行もできる!心は完全に青い海と空、椰子の木の下へ と飛んでいた。
ハローウィーンはマイアミだ。 Yahoo〜〜〜 ! !

Copyright(C) 2006 Inner Voice .All rights reserved
inserted by FC2 system